GRINDHOUSE MAGAZINE BACK NUMBER GALLERY

【2021.02.01更新】

PANIC! AT THE DISCO’s cover issue

文・有島博志

PANIC! AT THE DISCO(P!ATD)の1st『A FEVER YOU CAN’T SWEAT OUT』(邦題『フィーバーは止まらない』/2005年)にはいきなり響いたのを覚えてる。当時はまだ日本盤化される前だったけど、早耳なファンの間で輸入盤で人気に火がつき始めてた。ブレンドン・ユーリー(vo,g)の爽やかで伸びのある歌声、キッランキランしたポップなメロディ、そしてアソビ心を忍ばせてる曲作り、音作りなどが気に入り、当時日に何度も聴いてたほどだった。本国アメリカでもバンドに追い風が吹き出してた。その最中になにかのUSロック雑誌でバンドのライヴ写真を観て「わっ、面白そ!」と。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』(2003年)を想起させるメンバーのメイク、コスチューム、そしてそのイメージをより膨らませるようなステージセットにいたく惹かれ、「生で観てみたいなあ」となった次第。ちょうどバンドはUSヘッドラインツアー中だったんで、2005年11月25日、中西部コロラド州デンバーに飛んだ。移動中、もちろん「あのメイク、コスチューム姿のオフ写真を撮らせてもらえれば表紙をやりたいな」と密かに思ってた。
その前に滞在してたロサンゼルスからデンバーに入った瞬間、驚いた(このときが初デンバーだった)。まだ11月だというのに豪雪で、空港内の預け荷物受け取り場所にはスノボー、スキーの専用レーンがあり、その豪雪っぷりと即イメージが合った。けっこう雪が降ってたため、ライヴ会場のMagness Arena到着に予定より時間を要した。
会場裏口のステージエントランスからセキュリティを介してバンドのツアマネ(=ツアーマネージャー)氏を呼び出してもらった。女性で物腰の柔らかい人で、とても話しやすくて助かったのを覚えてる。その日の段取りを確認し、まずはオフの個人写真、グループ写真の撮影をやり、その流れでライアン・ロス(g)への取材となった。そして、ステージメイク&コスチューム姿の写真撮影をお願いすると、ツアマネ氏の表情が一瞬曇り、「んー、どうかしらね。そういう写真は撮らせたことがないの。バンドに聞いてみないと」との答え。
バンドとはこのときが初対面だった。協力的で、写真撮影も取材もサクッと終わった。
ロサンゼルスから同行した友達であり、名カメラマンでもあるマイカ・スミスも自分と同じことを感じたんだろう、「メイク&コスチューム写真、たぶん撮らせてもらえるんじゃない?」と、互いに話した。で、返事待ちの待機となったわけだけど、会場周辺にはなにもないところだったので外に出るのは得策じゃないとなり(雪もかなり降ってた)、ケイタリング&ホスピタリティルームで待たせてもらうことにした。で、待つこと1時間…2時間…ツアマネ氏が我々の前に姿を現すことはなく、なおもひたすら待ち続けた。そしてトータル3時間半以上経ったとき、ツアマネ氏がきて、こう言った。「バンドから撮影のOKが出たわ。ただし、撮影時間は5分よ」と。バンドがステージに出る直前の5分を意味し、ステージ袖へと移動する通路で撮影を行った。なにしろ5分だ、撮影できたカット数は少ない。その数限りあるなかから1点を選び、GrindHouse magazine、P!ATD初表紙登場号が完成、2007年1月31日にVol.40として発行した。1stの日本盤化のタイミングに合わせた。

撮影終了後、バンドのライヴを初観戦した。まるでサーカスを観てるような、またはオモチャ箱をひっくり返したような楽しい楽しいものだった。なお、1stの本国での発売元は当時勢いを持ち始めてたインディーレーベル、Fueled By Ramen傘下のDecaydance(現DCD2)。同レーベルのオーナーにはFALL OUT BOYのパトリック・スタンプ、ピート・ウェンツらの名が並ぶ。
P!ATDの2度目の表紙登場号は、2nd『PRETTY.ODD.』(2008年)発売タイミングで実施した。2008年3月31日発行のGrindHouse magazine Vol.47だ。

ロサンゼルスはハリウッドのホテルでの現地取材で、ブレンドンとスペンサー・スミス(ds)組と、ライアンとジョン・ウォーカー(b)組の2組に分け取材し、記事を掲載した。その取材前にちょっとしたハプニングがあった。ホテルの一室で2ndを試聴し、それから取材という流れだったのだけと、現地のレコード会社のスタッフが用意した、大きめのラジカセに毛が生えたようなCDプレーヤーが再生不能で音源は聴けずじまい。仕方ないのでスタッフがホテルまで乗ってきた車のなかに場所を変え、カーオーディオで2ndを聴き、取材に移った、なんていうことがあった(苦笑)。
実はこういうことは、このときが初めてじゃなかった。TOOLの3rd『LATERALUS』(2001年)発売直前のロサンゼルスのフォトスタジオでの現地取材のときも、まったく同じことを経験した(笑)。
2nd発売に合わせてのUSクラブツアー、Honda Civic Tour ’08をカリフォルニア州サンディエゴの中規模なクラブ、SOMAで観た。完全ソールドアウトで、場内は男女ティーンエイジャーで立錐の余地もないくらいの満杯状態だった(サポートアクトはMOTION CITY SOUNDTRACKら計3組)。ツアータイトルを見ればわかる通り、このツアーには大手輸送機器メーカーのHONDA USがスポンサーとしてついてて、「アメリカだとロックにジェネラルスポンサーつくんだ?」とちょっと羨ましい想いをしたのを覚えてる(笑:2018年には6th『PRAY FOR THE WICKED』収録曲“High Hopes”が、Honda ACCORDのTVCMに使われた)。下記のは会場入口で配布されてた小冊子。A6サイズ、20pで厚手の紙が使われてて、けっこうしっかりした作りになってる。

このツアーが終了してからしばらくしてライアン、ジョンが相次いで脱退、そして2015年には2人の後を追うようにスペンサーが脱退し、P!ATDは完全にブレンドンの1人プロジェクトになったのだった。
ちなみにバンド名に“!”(エクスクラメーション記号)が外されたり、戻されたりするのはなぜなんだろ?なにか深い理由でもあるんだろうか…。

有限会社グラインドハウス Copyright (C) GrindHouse Ltd. All Rights Reserved.