GRINDHOUSE MAGAZINE BACK NUMBER GALLERY

【2021.03.03更新】

THE PRODIGY’s cover issue

文・有島博志

自分には“絶対的バンド”というのがいくつかいるんだけど、このTHE PRODIGYもそのうちのひとつだ。3rdアルバム『THE FAT OF THE LAND』(1997年)で完全にブッ飛ばされ、持ってかれて以来、今日までずっと“絶対的バンド”だ。
3rdが出た頃はまだ、GrindHouse magazineが創刊前だったため、初表紙登場号は、4thアルバム『ALWAYS OUTNUMBERED, NEVER OUTGUNNED』が発売された2004年のことだった。

この作品からJPレコード会社がそれまでのA社からS社へと代わったのだけど、いきなりロンドンでの現地取材だった。取材当日の午後、指定されたソーホーにある会員制クラブ(マネージャーが会員だそう)に赴いた。少しすると、リアム・ハウレットが姿を現した。それまでにも何度もTHE PRODIGYを取材してきてたけど、対面取材の場合は必ずやメンバー全員でそれぞれに話を聞く、というのが常だった。だけど4thが極めてリアムのソロ作色濃厚と作品の性格がいつもと異なってたため、リアムがピンで取材に応じてくれた。
「新音源を作る際、以前はずっと“ひとつの方程式”に縛られてた。今回はそうした環境から飛び出したかった。それで自分所有のスタジオだけじゃなく、ニューヨークやロンドンでも作業したんだ。ラップトップコンピュータさえあれば、なんの問題もなかったからね。制作期間中に第一子が生まれた、なんてこともあり、昼間はワイフが面倒を見て、深夜帯はオレが担当だった。そういう経緯を経つつ、新作を完成させることができたんだ。スゴくいい時間を過ごすことができたよ」と、リアムは語ってた。
2度目の表紙登場は、それからさほど時間を置かずに実現した。バンドキャリア初のグレイテストヒッツ盤『THEIR LAW:THE SINGLES 1990-2005』発売タイミングで、だった。
小誌がグレイテストヒッツという、いわゆる“企画盤”で表紙をやるのはこのときが初めてで、以降今日までの間にはやってないと記憶する。言うまでもなく、THE PRODIGYだからこそやれたし、またやりたかった。

当初グレイテストヒッツ盤発売は所属してたUKレーベル、XL Recordingsの意向で、バンドはそれに対して懐疑的だったともっぱらだったのだけど…。
このときもロンドンでの現地取材だった。ウェストエンドのホテルにリアム、マキシム、キースが集ってくれた。写真撮影もあったことからメンバー全員替えの衣装を持ち込んでた。それもみんなかなりの量だったことが印象的だった。「そこまで替えないだろ」と(笑)。
グレイテストヒッツ盤発売に関して、取材中マキシムはこう語った。
「初期の楽曲を今改めて振り返って聴いてみるのも、いいもんだなって思ったんだ。未発表ライヴなどを聴いてると、オレたちは今どういうところにいて、今後どこに向かおうとしてるのかも見えてくる。とにかく、今まであまり振り返ってこなかったからね」
次の表紙登場号は、5th『INVADERS MUST DIE』(2009年)発売に合わせて。このときはいわゆる来日取材、写真撮影だった。バンドが投宿した東京・六本木のホテルの一室で行った。

取材中には、こういう話の流れもあった。4thがリアムの事実上ソロ作で、マキシムとキースがほぼ不参加だったことや、グレイテストヒッツ盤に話が及んだときだ。
リアム「2003年頃、オレはキースと不仲になり、苦境を味わった。1年ほど口すらきかなかったから。だからTHE PRODIGYとして前進していくための最善策として、4thにはキースのヴォーカル曲を入れないことにした。そうすることで、オレたちはあのときなんとか自分たちの問題を解決しようとしてた。そして、2005年にグレイテストヒッツ盤発売に伴うツアーで仲直りできたんだ。オレとキースは兄弟みたいなもんだから、2人の兄弟愛で問題を乗り越えることができたんだ」
ーーつまり、4thをリアムひとりで作ったことがキースとの間に距離を置くことになり、それが奏効したと?
リアム「その通り。4thは互いの距離を置くために必要不可欠な作品だった。あの作品のおかげで、オレたちはバンドとして再生した。あの作品がなかったら、今オレたちがバンドとして存在してたかどうかわからないよ」
ーーで、2人の不仲はなにが原因だったの?
リアム「隠す必要もないよな…」
キース「ないない」
リアム「2000年に差しかかったあたりまで3rdのツアーが続き、オレはかなりしんどくなってたから、しばらくオフをとることにしたんだ。ほどなくすると、マキシムとキースは次作に向けて動き出そうとしてたんだけど、オレはその気になれなくて、まだ新曲が作れる状態じゃなかった。で、結局オレは長くオフをとり過ぎてしまい彼らはそれぞれソロ活動を始めた(キースはFLINT、マキシムはMAXIM名義で活動)。その最中に突然、オレに急にエンジンがかかっちゃって、2人をスタジオに呼ぼうとしたら彼らはソロ音源の制作中で…」
キース「あまりにも長いこと連絡がなかったのに、突然スタジオにって召集がかかってさ。こっちはソロ音源の作業中で、それを中断するわけにはいかなかったから、リアムとけっこう衝突したんだ」
リアム「うん、そう。だけど、仲直りできてよかったよ(苦笑)」
UK音楽系メディアは昔から大袈裟に書くことで有名だけど、当時「THE PRODIGYが解散の危機に直面か?!」と報じた媒体がいくつかあったほど。事なきを得てよかったけど。

追加だけど、2002年の再来日公演のセトリが出てきた。シングル『BABY’S GOT A TEMPER』発売の一環で行われた公演だ。

そして、こちらは5th発売タイミングで実施したDJクラブイベント、GrindHouse nightでTHE PRODIGYをフィーチャーしたときの告知フライヤーと、イベント当日に先着50名に無料配布したコラボTだ。

有限会社グラインドハウス Copyright (C) GrindHouse Ltd. All Rights Reserved.