Tシャツ博物館 第21回

【2020.10.07更新】

文・有島博志

日本でもインダストリアルを中心とした幅広くアンダーグランドミュージックファンより長きにわたり支持されてるKMFDM(Kein Mehrheit Für Die Mitleidの略称)。結成は1984年ドイツのハンブルグ。途中一度活動を止め、MDFMKなる冗談みたいなバンド名で3年ほど活動してた。その後再びKMFDM名義に戻り、今日まで活動を続けてる。その3年間を差し引いてもキャリアは実に33年に及ぶ。その間に残してきたオリジナルアルバムは21枚。MDFMKで1枚。そのほかコンピ、ライヴ、シングルなどを含めるとトータルで50枚以上を数える。すばらしいキャリアだ。
80年代に発売された『DON’T BLOW YOUR TOP』(1988年)などの初期作品群の頃まではほぼEBM路線だったのだけど、1992年発売の6th『MONEY』よりハードくエッジーなギターが入り始めロックに傾倒。そして、次作7th『ANGST』(1993年)でその色合いはブーストされ加速していく。

今もなお、この作品が大好きでたまに聴く。力作で、彼らの数多の作品群のなかで最高傑作だと言い切れる。実はこの作品から日本盤化が始まる。今は閉鎖されてるけど、当時中規模なJPレコード会社がこの『ANGST』を皮切りに作品を遡りつつ、並行して新作をコンスタントに日本盤化していった。当時これはもう、とても画期的な出来事だった。担当ディレクター氏がインダストリアル好きだったようで、ほかにもMACHINES OF LOVING GRACEの作品を日本盤化した。で、このTシャツはその担当者より当時「着てくださいっ!」といただいたものだ。“A Drug Against War”は『ANGST』収録曲で、超ウルトラスラッシーな名チューンだ。

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2009年7月、ドイツのケルンで18日、19日の2日間にわたって開催されたゴシック/インダストリアルフェスのAMPHI FESTIVAL。FRONT 242、COVENANT、EISBRECHER、THE BIRTHDAY MASSACREなど総勢35組に混じってKMFDMも出演してた。

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このときのフェスは野外ステージひとつ、屋内ステージふたつの3ステージ制。KMFDMは屋内ステージのひとつに出た。もう、場内はまさに人、人、人のすし詰め状態。場内に入るドアを開けた途端、目の前に人の壁が立ちはだかる、みたいな感じで、かなり強引になかに分け入って観戦できた(笑)。言わずもがな、ライヴは相当な盛り上がりだった。このときKMFDMは16th『BLITZ』を出した直後の時期で、その発売に伴うツアーの一環で同フェスに出演した。

“総帥”サシャ・コニエツコ(vo,programming)がMDFMKで初めてタッグを組んだ後、女性シンガー、ルチア・シファレリがKMFDMに正式参加することでKMFDMの音楽的間口は一気に広がった。KMFDMのライヴを観るのはこのときが2度目だったけど、彼女の存在感はさらに高まってた。そのときに購入したのが『BLITZ』Tシャツだ。

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KMFDMの作品のアートワークは、イラストレーターのアイダン・“ブルーノ”・ヒューズが長年手がけてきた。彼が意図するのは「ロックミュージックでもっとも記憶に残るものにする」だそう。そのアートワークデザインがそのままTシャツに反映されることも多い。上記のA Drug Against War Tシャツは、シングル『A DRUG AGAINST WAR』のアートワークデザインだし、『BLITZ』Tシャツはアルバムのアートワークデザインだ。
KMFDMの音楽を“インダストリアルロック”、もしくは“インダストリアルメタル”と認識し、聴いてるファンて日本にもけっこう多いと思う。自分もそのうちのひとりだ。サシャは自らの音楽について、かつてこう語ってた。
「オレがKMFDMを始動させた1984年当時、自分ではこの音楽のことを“ウルトラヘヴィビート”って呼んでたんだ。“インダストリアル”という言葉にはいくつかの解釈があると思うけど、KMFDMを的確に表現するものはそのなかにはないね。幅広いスタイルをさまざまな音楽からの影響を持つこのバンドの音楽を単純に“インダストリアル”と呼ぶのは間違いだよ。やっぱり“ウルトラヘヴィビート”ぐらいの少し曖昧な表現を使うな。そのぐらいの表現の方が“インダストリアル”よりもさらに解釈の余地があっていいよ」
ルチアは2005年にサシャと結婚、女児を授かった。

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